その時、新大阪の彼女のマンションにいた。
明け方、突然ドンという揺れで目を覚ました。
何が起こったのか理解できず、とにかく彼女をかばおうとした。
しばらくして、揺れがおさまった。
状況を把握しようとして、スイッチを押すが電気はつかなかった。
傾いている食器棚の脇をすり抜け玄関の扉を開けるが、
その時は、何もわからなかった。
すこしウトウトとした後、TVをつけた。
そこで初めて地震だったと理解した。
高速道路の料金所が倒壊している映像が映っていた。
TV局もまだ、把握できていなかった。
仕事に行くために、駅のホームへ向かった。
ビルの廻りにガラスが散らばっている。
コンクリートブロックの塀や墓石が倒れている。
電車は動いていなかった。
一度、部屋に戻りTVをみた。
少しずつ被害状況が、報道されてきた。
交通情報を確認しながらずっと見ていた。
その時は、会社にも電話が通じた。
京阪電車が動き出すという情報があったので、淀屋橋まで歩いた。
結局左京区の会社に着いたのは、14時位だったと思う。
その時もまだ何も分かっていなかった。
数週間後、神戸へ3回行った。
2回は、建築物応急危険度判定のボランティアに。
1回は、事務所が設計に関わった建物の状況を確かめに。
実際を自分の目で見て、
被災された人々と話をして、
建築を仕事として携わるものとして、
人として、
ショックだった。
彼女はその直後、非常持ち出し袋を用意した。
カメラを持っていたのだが、
その場所ではシャッターを押すことができなかった。
震災直後に購入。
まだ表紙には、「死者・不明4000人」と状況が把握できていない。
この本は、あの時の思いと一緒に大切にしている。
16年、その間に彼女は妻となったが非常持ち出し袋はない。